奥只見袖沢に入るようになってから三十年が過ぎようとしている。最初の頃は「とんじろ」さんは宿ではなく、食事や土産物を営んでいたと思う。バイクの貸し出しは、その頃から始まったと記憶している。不確かだが、シルバーラインでは通行手数料を払ったように思う。袖沢に通じる道もゲートがあり、門番が常駐していた。その横を門番(日釣り券もその人から購入する)がいないときに通り過ぎる。そのころのゲート回りの景色は現在とずいぶん違っていた。もちろん「とんじろ」さんも同様である。宿としては下の部屋のみ使用していた。泊まれると釣り人の間に広まってからは、宿としての成り立ちは早かった。厨房や1階を改築し、二度の改築の末、現在の原型ができあがった。電気も個人水力発電から公営電気にと奥只見の観光も進んでいった。スキー場はもちろん、トンネルも同様であった。変わらない物は袖沢と釣れる岩魚である。昔はもっと釣れたという人もいるが、私自身はあまり変わっていない。

ただ山々は少しずつであるが、形を変えている。いろいろなことが、あっという間に通り過ぎてしまった。中には鬼籍に入られた人もいる。中には袖沢に見切りをつけた人もいる。様子だけでなく、釣り人も変わってしまった。私自身も振り返ってみると独身時代から子供が大学に入学するまでと、生活が一変している。通り過ぎていってしまった釣り人、今でも懐かしく思い出す。当時は主と呼ばれている人が数名いた。Yさんはもちろん、他界された歯医者さん、上野のTさんと私自身も面識のない人もいたが、山を知り、川を知り、自然を知り、と大先輩にいろいろなことを教わった。中には奥只見ダムができる以前より、只見川を釣り登っていた人もいた。また、隠れた主もいるようであった。そのころのマスターは釣りを一切していない。

 渓流の情報は「じっちゃん」(マスターの父親)から教わることが多かった。こんなことがあった。8月のアブの時期、私は2〜3日とんじろさんで厄介になっていた時、あまりに釣れない私を見てじっちゃんはこう言った。「先生、○○沢に入ったらどうかね。今年はまだ誰も入っていないので少しは釣れるよ。」半信半疑に入渓してみると、初心者では越せそうもない滝が二本。今では何でもない滝が、そのときの私には非常に高く見えた。道具を確認しながら登る。思ったほどではないなぁと丁寧に登り、出合いから竿を出す。小さい淵から25センチ弱の岩魚がいとも簡単に釣れた。1時間ほど釣り登ると魚止めになる。ここで尺物を3匹あげるが、いたるところに岩魚はいた。魚籠には20〜30匹は入っていたと思う。袖沢に入ってから初めての尺物であり、今でも記念の一匹は額に入っている。細く、さびが出ている岩魚だが、あのときの引きは忘れられない。そして、この沢と袖沢との出合いの淵で自己記録が出ている。遡上ものの雄63センチ雌60センチを上げている。計測・記念写真後、そっと本流に戻した。

 このようなことが何度か続いた。じっちゃんから教えてもらった沢は何本もあるが、岩魚が釣れなかった沢は一本もなかった。また山菜採りにも精通しており、よく連れて行ってもらった。「さるのこしかけ」もよく採りに行った。じっちゃんの山を走る速さは神がかりのものがある。私がザイルを出す場面でも「垂直に登り、垂直に降りる」ことが常であった。また、ダム建設中の話もよくしてくれた。当時、蓬沢で作業中岩魚が遡上しくると「のこぎり」を持って追い回し、岩魚の頭を叩いて捕まえたとうれしそうに話していたのを思い出す。岩魚は釣るのではなく、叩くのだと習ったのもそのときである。そして、どんなすき間にも岩魚が入り込んでいると習ったのもそのときである。幻のキノコ、舞茸でさえ「あそことあそこの木にでるよ」と言っていたのを思い出す。しかし、とても私が近づける場所ではなかった。

 今、振り返ってみると先達者から教えられるものがあまりにも多い。自分一人で山を走っているように見えるが、山の中のことはすべて教えられたものであり、袖沢を知り尽くした者から受け継いだものばかりである。釣りの伝承は長男に受け継がれているが、山術は未だに伝承できていない。残念だが、先達者に対して恩返しらしきことはできていない。 とんじろのマスターの釣り技は周知の通りだが、この頃は釣りに対して一切興味を示さなかった。この2〜3年後、渓流竿「岩魚」を持って渓流にはいることになる。宿の仕事の合間ではあるが、一般の釣り人とは経験時間が少しずつ違ってくる。と当時にそれは釣り技にも関係した。確かな情報を元に奥袖や大鳥沢と飛び歩き確かに上達していった。竿づりでは記録的な大岩魚は出ていないが、それでも一般の釣り人とは比べものにならない。途中からルアー釣りに転向していくが、マスターが渓流竿を振っていたことを知る人は少なくなってしまった。夕食後一緒に沢に降り、てんから竿を暗くなるまで振っていたのを今のように思い出す。当時釣れるではなく、釣っていたのは事実であり、それは前日に北の又川で川虫採りをしていたことからも解るであろう。また、同時にルアー技術も格段に上達していった。大鳥梁山泊の先達者が指導者では、上達しないわけはない。スプーン、フローティング、トローリング等分け隔てなくマスターは吸収していった。

 釣り技の初歩は宿にとって大切と女将さんも考えていたが、のめり込むにつれそれは頭を悩ます一つになったようだ。その後、ルアー釣りで記録ものを引き出すことになる。そして、現在は釣り客に対するアドバイスや沢割にその経験が生かされ、女将さんの頭を悩ましていたことは客の安全という代償になった。過去に袖沢や大白戸川で釣り人が亡くなったことがあるが、私の「とんじろ」仲間では危険なことは一度もなかった。安全は釣り技と比例しているように思える。 宿として認識されると「とんじろ」ではアルバイトを必要とすることが多くなっていった。特に思い出すのは「居候」「マー坊」の二人である。二人ともやはり同じように岩魚釣りにのめり込んでいった。元々釣り好きな「居候」は北海道を釣り渉っていたそうである。両者はとんじろ梁山泊から巣立っていった釣り人である。今でも二人の笑い声が思い出される。そして、それは気持ちよく釣りをさせてくれる従業員でもあった。 このように宿としての歴史を積み重ねていったわけだが、多くの苦労は誰も解らない。

 美しい奥只見の自然には、かならず厳しい季節がある。釣り人の経験しない季節は想像すらできない。また、紅葉の美しい季節が来た。そろそろ「ナメコ」狩りか、「山ブドウ」摘みかなどと考えているのは私だけであろうか。来年は長男が岩手の学舎に行くので、また一人釣りになる。「回顧と前進」尊敬する学長の言葉だが、しばらくは一人で前進してみたいと思っている。